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大阪高等裁判所 昭和32年(ネ)706号 判決

第六九五号事件控訴人・第七〇六号事件被控訴人(一審原告) 米谷一良

第六九五号事件被控訴人・第七〇六号事件控訴人(一審被告) 庄田末吉

第七〇六号事件控訴人(一審被告) 千代田莫大小株式会社(現商号・大和林業株式会社)

主文

一審被告庄田末吉の本件控訴を棄却する。

一審被告千代田莫大小株式会社(現商号、大和林業株式会社以下同じ。)の控訴に基き、一審原告と一審被告千代田莫大小株式会社の間において、原判決主文第一項中同被告会社関係部分を左の(一)及び(二)のとおりに変更する。

(一)  一審被告千代田莫大小株式会社に対し原判決添付第一物件表記載の土地建物の各所有権がいずれも一審原告に帰属することを確認する。

(二)  一審原告の一審被告千代田莫大小株式会社に対するその余の請求を棄却する。

一審原告と一審被告庄田末吉の間において、一審被告庄田末吉の控訴費用は一審被告庄田末吉の負担とし、

一審原告と一審被告千代田莫大小株式会社の間において、訴訟費用は第一、二審を通じこれを三分し、その一を一審原告の負担とし、その二を一審被告千代田莫大小株式会社の負担とする。

事実

一審原告は「原判決主文第七項中、一審被告庄田末吉に対し第三物件表記載の約束手形七通が一審原告の所有に属することを確認すべきことを求める一審原告の請求を却下し、右手形引渡不能の場合に一審庄田末吉に対し金一六一万四、九二〇円を支払うべきことを求める一審原告の請求を棄却した部分を取消す。一審被告庄田末吉に対し原判決添付第三物件表記載の約束手形七通が一審原告の所有に属することを確認する。一審被告庄田末吉は一審原告に対し右約束手形七通を引渡せ。右引渡が不能の場合には一審被告庄田末吉は一審原告に対し金一六一万四、九二〇円を支払え。訴訟費用は第一、二審とも一審被告庄田末吉の負担とする。」との判決を求め、後昭和三九年六月一一日午前一〇時の当審第三四回口頭弁論期日において右約束手形七通の所有権確認及びその引渡、引渡不能の場合における金員支払の各請求は全部取下げると陳述し、一審被告庄田末吉は右取下に同意し、一審被告等の控訴に付「控訴人等の各控訴を棄却する。控訴費用は控訴人等の負担とする。」との判決を求め、昭和三六年一月二四日午後一時の当審第一四回口頭弁論期日において、一審原告の本訴請求中、一審被告両名に対し原判決添付第二目録記載の各物件の所有権がいずれも一審原告の所有に属することの確認を求める部分並びに一審被告千代田莫大小株式会社に対し原判決主文第五項掲記の電話加入権が一審原告に帰属することを確認し一審原告名義に書換手続をなすべきことを求める部分に付訴を取下げると陳述し、一審被告等はいずれも右訴の取下に同意し、更に一審原告は前記第三四回口頭弁論期日において本訴請求中、一審被告両名に対し原判決添付第二目録記載の各物件の引渡を求める部分並びに一審被告両名に対し各自原判決主文第四項掲記のとおり金員を支払うべきことを求める部分に付訴を取下げると陳述し、一審被告等はいずれも右訴の取下に同意した。

一審被告庄田末吉は「原判決中一審被告庄田末吉敗訴の部分を取消す。一審原告の一審被告庄田末吉に対する請求を棄却する。訴訟費用は一審原告と一審被告庄田末吉の間においては第一、二審とも一審原告の負担とする。」との判決を求め、一審原告の控訴に付控訴棄却の判決を求めた。

一審被告千代田莫大小株式会社(現商号、大和林業株式会社)は適式の呼出を受けながら昭和三三年二月六日午前一〇時の当審における最初の口頭弁論期日に出頭しないので陳述したものとみなした同被告提出の控訴状の記載によれば一審被告千代田莫大小株式会社は「原判決中一審被告千代田莫大小株式会社敗訴の部分を取消す。一審原告の被告千代田莫大小株式会社に対する請求を棄却する。訴訟費用は一審原告と一審被告千代田莫大小株式会社の間においては第一、二審とも一審原告の負担とする。」との判決を求めているのである。

当事者双方の主張証拠の提出援用認否は、

一審原告において、

「米谷メリヤス製造所」の営業は一審原告の実母亡米谷フジが大正六年末頃一審原告を営業主として同人のために創設したものである。これより先亡米谷源次郎(一審原告の実父であり、米谷フジの夫である。)の家督相続人卯三郎と米谷フジの間に相続財産引渡請求訴訟が係属していたのであるが大正六年末頃に至り当事者間に裁判外の和解契約をなし右訴は取下により終了した。米谷フジは右和解契約において卯三郎からメリヤス製造用工場施設や居宅の使用権を譲受けて前記のように一審原告のために営業を創設した。右譲受資金はフジが自ら宇治とらや親戚の大塚嘉平衛等から借用調違した金員を以つて支払に充てたのであつて一審被告庄田末吉が右営業主としてその郷里から携行してきた金一〇〇円を資金に充てた事実はない。一審被告庄田末吉と米谷フジとが婚姻して一旦は戸籍の届出までしたがフジの側の親族が挙つて反対したため僅か四〇数日を経た大正五年九月八日には戸籍上協議離婚の届出をした。元来右婚姻はフジが夫源次郎に死別し幼児を抱えて途方に暮れていた窮境に乗じ庄田末吉が遠大な陰謀を実現するためになされたものであつた。

以上のように米谷メリヤス製造所の営業は一審原告が亡父から相続に因つて承継したものではなく最初から一審原告の営業として出発したものであつたけれども、その後昭和一四年になつて株式会社米谷商店が設立せられて従前の米谷メリヤス製造所の営業一切を右会社が承継し、更に昭和一七年に至つて企業整備法に基く民間諸企業の合同化の措置に応ずるため株式会社米谷商店は同年末解散せられその営業種目中第一次製品の関係部門は分離せられて庭窪莫大小生地工業小組合に加入し一審原告は理事に就任して右組合に参加し、従前の営業中第二次製品関係部門は再び一審原告を営業主とする個人企業として経営せられることになつたが、更に昭和一九年に入つて前記整備法に基き右第二次製品関係業者を構成員として大阪莫大小製造株式会社が設立せられ一審原告が同会社代表取締役に就任した。しかしやがて終戦に伴い右組合と会社は解散し前記第一、二次各営業とも再び一審原告を営業主とする個人企業として経営せられるようになつた。ところで営業主体の形式的組織こそ当時の国策に順応して或は株式会社となりまた小組合となつたこともあつたけれどもその対外関係における営業主体の法的組織形態の変遷にも拘らず内部関係においては右営業一切の実質的帰属主体は終始一貫して従前通り一審原告に外ならなかつたのであり、一審被告庄田末吉は終始右営業の使用人としてその組織形式の変化に随ひ時に組合の使用人、会社の使用人たる外的形式を具えたものである。

なお一審原告の亡父米谷源次郎が生前営んでいたのは原糸をメリヤスに加工する仕事であつてメリヤス生地の裁断はしていなかつた。一審被告庄田末吉が裁断も行うようになつたのは昭和年代に入つてから後である。

本件土地建物の売主たる前主は土居産業株式会社のみである。もつとも右不動産中には登記簿上土居薬品株式会社の所有名義のものが存するが右両会社の代表取締役はともに土居勲であつて別会社とはいうもののいずれも土居勲が一切の経営を単独で主宰遂行していたのであつて、本件土地建物は実質上すべて土居産業株式会社の所有に帰属するものであることには何等の差異も存しなかつたけれども右土居社長の裁量により便宜土居薬品株式会社の名義を登記の形式上に借用したにすぎないのである。

本件土地建物の売買は一審原告が指図して一審被告庄田末吉をして右土居勲と折衝締約せしめたものである。そして右土地建物等の買受に付一審被告庄田末吉が自ら他に委託加工せしめた人絹シミーズ、丸首シヤツ等を売却して右不動産の代価支払資金を調違した事実はない。右買受代金の支払資金は一審原告自身が川島憲次(昭和三七年一月二〇日付一審原告の準備書面中に「森川」とあるのは「川島」を誤まつて表示したものと認められる。)に加工委託して前同様の種類の成品とし、自ら川島に対し加工賃を支払い、右成品を自ら浜口道則、中島一雄等に売却することによつて調達したものである。

前記相続財産引渡請求訴訟に付弁護士西田四郎が大正二年当時一審原告の母亡米谷フジの訴訟代理を受任して右訴訟に関与したり米谷卯三郎と米谷フジの間の前記和解契約の締結に関与したりしたことはない。

一審被告千代田莫大小株式会社は一審原告の本訴提起後においてその代表者も実体も存在しなくなり従前本件建物に掲げていたその看板さえ撤去せられたままで既に長時日を経過しているのである。しかも昭和三五年一月に至り従前の商号を大和林業株式会社と変更して登記を経ているのである。なお商号のみでなく右会社の営業目的及び本店所在地が右一審被告会社主張のとおり変更せられて登記を経たことは認める。

一審原告提出の甲第三五号証の一九乃至二九、同第三六号証の五の中「米谷一竜」とあるのはいずれも一審原告を指すものであつて「米谷一良」の誤記であり、甲第五九号証の記載内容中、「松本宇一」とあるのは原告の実弟で松本ひさの養子となつたために一審原告と氏を異にするのであるが、同人は入隊まで一審原告や実母フジと同居し営業主たる兄一良を扶けて米谷莫大小製造所の営業に従事していたのである。

また昭和二〇年戦災により焼失するに至るまで一審原告が米谷メリヤス製造所の工場及び居宅として熊田種次から賃借使用していた家屋の所在地番としては大阪市北区東野田町三丁目三四四番地の二というのが正しい。しかし大正一五年四月一〇日に称呼変更措置によつて三丁目六一番地となつた。一審原告提出の書証中「米谷一良」又は「米谷フジ」の住所として記載せられた番地の表示中「三四四」もしくは「六〇」とあるのはいずれも各作成者の錯誤に因る誤記である。

原判決事実摘示中証人和久田宗雄とあるのを証人和久田宗男と訂正する。

立証〈省略〉

と述べ、

一審被告庄田末吉において、

原判決は、一審被告庄田末吉(以下庄田と略称する)は一審原告(以下米谷一良又は単に一良と略称する)が亡父米谷源次郎から相続した設備や暖簾等を利用して一良を養育すべき旨の包括的行為の委任を受けたものであつて営業主は米谷一良であると認定した。営業経営につき包括的行為の委任がなされていると認め得る場合としては、(一)庄田が米谷一良の使用人であつてその間に雇傭関係の存する場合と、(二)米谷一良が庄田に対して営業経営を委任した場合とが考えられるが法律上そのいずれであるとしても、父親がその子の名義で営業又は法律行為をなし敢えて自らの名を示さない例は世上一般の例として格別奇異な現象ではない。このような場合に当該営業経営に関する行為の当事者の何人なるかの確定はそれぞれ私法上の行為である場合には法律行為解釈一般と同様に取扱われるべきである。蓋し当事者の存在は法律行為の主体的要素でありその確定も法律行為解釈の一目的をなすものであるからである。しかるときは当該具体的場合における行為当事者の何人なりやも当該法律行為がなされた当時の諸事情や基盤たる事実関係を実質的に探究して決定せられるべきものといわなければならない。

そこで本件土地建物の売買の当事者、米谷メリヤス製造所の営業全般に付その営業主の何人なるやを確定する基礎事実の一として米谷一良と庄田との関係を考えると次のとおりである。

庄田は大正三年一一月以降営業主であり、大正五年七月二五日以後同年九月八日までは法律上にも米谷家の戸主であり一良の母フジの夫であり一良の父であつた。そして大正五年九月九日以降においても事実上は庄田の右身分上の地位は継続してその間何等の変動もなかつたのである。庄田が一良幼少当時から引続き父親の地位に在つたことは庄田が営業主であつて一良は営業主でなかつたことの推論を必然ならしめるものである。蓋し父親が息子の使用人であるとか単に息子から営業を委かされた者にすぎないとは実験則上考え得ぬからである。

米谷一良が自ら営業主であると主張している米谷メリヤス製造所(以下米谷メリヤスと略称する)なる営業は、米谷源次郎死亡後であり庄田と米谷フジとが入夫婚姻する以前である大正三年に庄田自身が源次郎生前の営業とは全く無関係に別個独立の営業として創業したものであつて米谷一良とも無関係に発足した。営業内容について見ても米谷源次郎生前の営業は原糸をメリヤス生地に識り上げることを内容とする加工業のみであつたのに対し、庄田はメリヤス生地の裁断の技術を習得して大正初期から裁断を営業内容としていたのである。したがつて米谷一良が亡父源次郎から相続した営業設備を利用し中止していた源次郎の営業を再開して米谷メリヤスとしたわけではないのである。米谷一良は元来亡源次郎の相続権は有せず源次郎から何等の資産も相続していない。米谷源次郎は大正二年一二月一九日に死亡したのであるが当時源次郎の子としては先妻ツルとの間に生まれた長女ヒサ、長男卯三郎、二男源次郎、三男清之助、二女シズ等があり、長男卯三郎が家督相続をしたから一良としては相続した財産は何もなく、したがつて設備を必要とするメリヤス製造を目的とする企業が一良を営業主として経営できる筈はない。まして一良は僅か年令七才の幼児であつたから仮に当時現実に営業が行なわれていたとすれば営業設備を事実上占有していた米谷フジが一良の名義を使用して営業をしたものと解する外はない。源次郎に死別後フジが果して営業を経営していた事実が存するであらうか。次にこの点を検討する。

庄田は年令一八、九才になつた明治四二年頃大阪市都島区東野田町三丁目六一番地において米谷源次郎が経営していた米谷メリヤスに雇われて働くうち明治四四年徴兵により入隊し大正三年一一月頃除隊した。源次郎は既に約一年前に死亡し、かつての米谷メリヤスの工場二棟は同市西区江戸堀三丁目メリヤス輸出業浜浦亀之丞に賃貸せられ、未亡人フジは右工場隣の熊田種次所有家屋の二部屋に当時五才の一良とその弟宇一を抱えて借家住いをし浜浦の工場で賃仕事に従つていた。源次郎長男卯三郎もフジとは別の場所に居住し矢張り浜浦の工場において職人として働いていたのである。このように源次郎の歿後は旧米谷メリヤスの営業設備はすべて他人の占有に帰し従前の使用人も一人として残つているものはない有様であつて米谷メリヤスの営業はもはや完全に解体消滅に帰していたのである。庄田は米谷メリヤスに雇われる以前に永田米吉の丸米商店で習得した技術もあつたのでその生家から持参した資金一〇〇円乃至一五〇円をもつて前記浜浦の賃借工場に隣接する熊田種次所有の別棟の工場建物の一部を転借し独立してメリヤス製品仕立製造販売営業を開業した。その営業内容は前記のように源次郎生前の営業とは全く異るものであつたから得意先も自ら源次郎の取引先とは別異のものであつた。当時米谷一良を営業主とする経営と目すべきは何等存しなかつたのである。やがて近所に居住していた池田精秀から米谷フジとの入夫婚姻を勧められ大正五年七月庄田二五才、フジ四〇才の時に入夫婚姻により庄田は米谷一良及び宇一の父となつたが自己の創設した前記営業は引続き庄田が営業主として継続せられ何等の変動も生ずることはなかつた。庄田とフジの婚姻に際し仲人池田精秀のはからいで自ら書面(乙第二号証の一乃至四)を作成して明らかにしたところによれば、庄田はフジ占有の各種動産の贈与を受けたに留まらず庄田は財産の相続をもしたのであり、米谷家の債務を引受けたものでもあつた。尤もこれによつて庄田が取得した資産としては僅かに工場二棟(一五坪二棟)及び機械約一〇台にすぎなかつた。なお右書面により明示せられたこととしてその他に、「庄田は米谷源次郎の遺子一良及び宇一が成長し一家を立てんとする際は自分等の資産状態に基き自分相応に分財致し一家を創立せしむること」と定められていたのであつて、右一事を以てしても一良が当時営業主の地位にはなかつたことが明らかといわなければならない。蓋し既に営業主の地位にある者をして更に将来一家を創立せしめる必要は存しないからである。

右婚姻の際に庄田に対し原判決認定の如き包括的行為の委任契約がなされた事実はない。仮に婚姻の当時既に一良を営業主とする経営が存在していたとしても、庄田が婚姻後自らその経営に任じ且つ幼少の一良や宇一の養育にあたることは婚姻に伴う当然の結果に外ならず敢えて包括的委任契約を持つ必要は全く存しないところである。

庄田は右入夫婚姻によつて米谷家の戸主であり一良の父たる地位に就いたのであるが、庄田が元源次郎の使用人であつたこと、フジが既に四〇才であるのに庄田が未だ若冠二五才であつたこと、庄田が前記卯三郎よりも一年齢下であること、卯三郎からフジに対し亡源次郎の遺産引渡の訴が提起せられ第一審原告代理人西田四郎弁護士がフジの訴訟代理人となり卯三郎との間に和解契約を締結し卯三郎に対し現金二〇〇円及び機械五台の引渡をしたこと等の事情が重なつて庄田とフジの入夫婚姻に対しては終始米谷家の親族の側に強い反対があつたためにその緩和方策として婚姻後僅か二ケ月にして協議離婚の戸籍の届出をした。もとより庄田とフジの夫婦伸が悪化破綻したことによるわけではなく、もつぱら前記のような親族一同の反感の融和策として戸籍の形式上離婚したにすぎなかつたのであつて、庄田とフジとは右届出の後も引続き同居して事実上の夫婦生活を継続し、一良、宇一に対しては引続き事実上父親としてその養育にあたり、且営業を主宰統轄していたのである。

庄田とフジとの事実上の夫婦としての同居生活は前記婚姻当時以降昭和二六年一一月一七日まで継続されて大正九年には夫婦間に清子が出生している。その間における庄田、フジ、一良及び宇一の日常家庭生活の模様は次のようなものであつた。

米谷メリヤス工場の従業員等は庄田を営業主と考えて「大将」と呼び慣わし、フジを「御寮さん」とか「奥さん」、一良を「ぼんぼん」と呼んでいた。庄田、フジ及び一良等は一家族として工場事務室の隣りにある畳敷きの二間に起居し庄田とフジとは寝室も共にしていた。庄田はフジを「おい」とか「おばあちやん」と、フジは庄田のことを「主人」又は「大将」と呼び、庄田の食事の給仕その他日常身のまわりの世話もフジが自らしていた。庄田の身寄りの者が来訪すればフジは世上一般家庭の主婦と同様主人の親戚に対する態度をもつて自らその接待にあたつていた。夫婦仲は傍眼にも円満に見受けられた。一良は庄田の養育監護の下に小学校をおえ関西甲種商業学校を卒業した後更に東京に遊学し庄田の仕送りによつて早稲田大学専問部を経て昭和八年明治大学商学部を卒業し、昭和一三年庄田の甥西川音吉の斡旋で吉村真造、けいを仲人として現在の妻栞と結婚した。結婚記念写真によれば庄田は正に新郎の親の座すべき位置に座しているのである。やがて庄田は昭和一六年一二月芦屋市月若町七一番地所在の居宅を買受けて一良夫婦を居住せしめた。その後一良は大学卒業間もない頃に罹患した肺結核が再発悪化し昭和二一年頃から病臥するに至つたが一良夫婦の生活費及び一良の療養費は一切庄田が負担支出し、殊に昭和二六年頃には毎月の仕送額は五万円にも及んだのである。一良の妻栞も日常庄田を「おとうさん」と呼び、一良の子友良は庄田とフジを「おじいちやん」「おばあちやん」と呼んでいた。

次に米谷メリヤスの営業における庄田の地位を観察すれば左のとおりである。

庄田が前記の如く独立して営業を開始した当初は格別の商号もなく庄田末吉名義で営業をしていたのであるが米谷フジと入夫婚姻した大正五年七月以後はかつて「米谷メリヤス」という商号を使用して営業をしていた亡米谷源次郎の遺族と生活を共にするようになつたこと及び源次郎が以前賃借使用していたのと同一の工場を熊田種次から賃借使用していたこと等が原因して世間ではいつしか庄田の営業をも「米谷メリヤス」と呼称するようになつたので庄田としても取引の便宜上商号として「米谷メリヤス」の呼称を採用した。しかし営業主名義が庄田末吉であることには何等の変動も存しなかつたから警察工場課に対する取締に関する各種の届出、納税、営業取引等はすべて庄田が庄田末吉名義でこれをなしているのであり、統制令違反による刑事訴追も庄田の名義で受け、昭和一七年に庄田末吉名義で罰金一万円を納付したこともある。しかし営業主が或る事項に付便宜子の名義を使用する世上一般の例に倣つて庄田も火災保険契約や預金に付米谷一竜の名義を使用した例も存する。しかしながら大正年代といえば一良は未だわずかに一七才にすぎなかつたことを考えれば右名義の故に一良をもつて実質上の営業主と認めることはできない。また庄田が熊田種次から賃借していた工場の家賃通帳の名義は大正五年以後昭和一九年まで米谷源次郎、フジ、一竜(一良の別名である)となつているのは、右建物を源次郎が生前賃借していたことがあるところから家主の側で漫然旧借主の遺族名義を表示したものに外ならないから右名義をもつて営業主の一良なることを認定するに足りる証拠とすることはできない。ところが昭和一五年になつて庄田末吉は右営業に対する営業税約五〇〇円の滞納処分として不動産の差押公売処分を受け、しかもなお残額について更に重ねて滞納処分の差押を受ける形勢に在つたのでこれを免れる方法として爾後不動産所有名義に息子一良の氏名を使用することにし、昭和一六年一二月庄田が自己の住宅として芦屋市月若町七一番地所在の家屋を買受けるについても買受人名義を形式上米谷一良としたのである。このようなことは一般商人社会で日常屡々行なわれるところで格別異とするに足りず、もとよりこれをもつて営業の実質上の帰属を決すべき理由となしうるものではない。しかも庄田はあらゆる関係に付必ずしも米谷一良の名義を使用していたわけでもないのであつて、庄田末吉の名義で領収書が作成され同名義で銀行の普通預金通帳が作成せられている場合もあるし何人を名宛人名義とした証明書や仮領収書も発行せられているがこれは決して庄田のサイドワークという如き性質のものではない。営業税の賦課の名宛人が庄田となつていることに徴しても同人が単なる営業上の一使用人にすぎないものと認めることの誤つていることは明白である。

したがつて庄田が昭和一五年以後米谷メリヤスの商号をもつて米谷一良名義で営業を継続していたからといつてこの時期に庄田が一良に営業を譲渡したわけではなく、庄田は「米谷一良こと庄田末吉」として、すなわち「米谷一良」の氏名も庄田自身を表示する呼称として使用し自己の営業を従前通り継続していたのである。右名義使用に付一良の承諾を得たような事実もないのである。なお前記税金滞納による公売処分に懲りて一良の名義を使用するに至つた次第の詳細は次のとおりである。

庄田に対する昭和一三年度の所得税決定額は金三八四円二八銭(一期分金九六円七銭の四期分である)であつたが昭和一四年度になると所得税額は四期分合計で金八、九三九円六八銭となりこれに加えて臨時利得税金一万〇、一〇七円五六銭、以上合計金一万九、〇〇〇円が賦課せられるに至つた。前年度に比較し約五〇倍にも及ぶ右課税額は驚くべき高額の負担というべく、庄田はこれを全く納付しなかつたので再びその所有財産に対し滞納処分の行なわれる虞が多分にあつたのである。何人といえどもこのような事態に直面するときは不動産取得に付納税義務者と同一名義を使用することを回避して第三者名義を使用するであらう。庄田としても租税強制徴収が不動産の公売処分に及ぶことを懸念したため昭和一六年一二月に芦屋市月若町所在の家屋を自ら買受けるにあたりその登記の形式上登記名義として自己が幼少より育ててきた一良の名を使用したのである。

次に営業主として庄田の活動状況を見るのに、庄田は大正三年一一月以来昭和一六年までは大阪市都島区東野田町三丁目六一番地所在の工場兼住宅建物に居住し、昭和一六年芦屋に居宅を買入れた後は同所に居住し、戦災前は東野田町の右工場において、本件工場建物買取後は同建物において本件訴訟に至るまでの約四〇年間「米谷メリヤス」という商号を使用してメリヤス製品の製造販売の営業を自ら経営してきたのであつて、その間を通じて庄田が一切の業務を直接決定統轄し、取引上の折衝、業務に関する経理会計、銀行取引(小切手の振出行為も含む)、全使用人の指揮監督並びに使用人に対する諸給与の支払等一切の事務を庄田自らの手で処理してきたのであり、同業関係組合の会合にも庄田本人が出席した。唯組合加入名義のみ形式上一良としていたがもとより実質上の組合員たる地位は庄田に属するのであり、一良は時折特に庄田の依頼を受けて出席したことがあつたにすぎない。その他右営業取引上の紛争に付庄田はその名において訴訟当事者となつたことも数回あつた。すなわち大正一〇年頃の原告庄田末吉被告小林藤太郎間の約束手形金請求事件、昭和一〇年頃の原告右同被告中井万平間の約束手形金請求事件、昭和一五年頃の原告根本正臣被告庄田末吉間の商品引渡請求事件である。

これに対し右営業経営に対する一審原告関与の実情を観察すれば次のような状況であつた。

一良は昭和八年明治大学を卒業し父母の住居する前記東野田町に帰宅したが学生当時の過度の運動が原因して肺結核に罹り帰宅後一年足らずして喀血する程の症状となつたためもつぱら療養に努め殆ど業務には関与せず、時に症状軽快な場合に庄田のために集金事務をしたり二、三度組合の会合に出席したことがあるにすぎなかつたのであつて、学校卒業後一良が自分の営業が大阪莫大小製造株式会社に合併されるまで独りで商売をやつていた事実は全くないのである。庄田は昭和七、八年頃神戸市に営業出張所を新設して一良を派遣したが経営能力不足のため直ちに保川良雄と交替せしめたこともあつたのである。庄田が新に芦屋の家屋を買取りこれに転居すると一良もこれに伴つて移転したが昭和二一年一良は結核の症状が再発し約八ケ月間甲南病院に入院加療しその後は引続き右芦屋の居宅で三、四年もの間格別の仕事もしないで静養を続けたがその間の生活費や療養費は一切庄田が父としてこれを負担支出したのである。

このような状況であつて一良を営業主と目するに足りる経営実蹟は殆ど何物も存しないのである。一良は東野田町の工場に出入することはごく稀で営業に関する銀行取引に使用すべき印鑑の所持保管の状況さえ何も知らなかつたのである。右営業用の印鑑は庄田が昭和一六年に神戸元町で調製させた角形印、長形印及び丸形印の三個で爾来常に庄田が自ら所持し一良その他の者に使用させたことは絶えてなかつた。また一良夫婦だけが前記芦屋の居宅に住んでいたのではなく庄田も自宅としてこれに居住して東野田町若しくは本件建物に通勤していたのであり、昭和二六年には通勤に使用する優待乗車券を入手するために西田昌二に依頼して京阪神急行電鉄の株式約七〇〇株を庄田末吉名義で買つた。以上の事実によつても庄田が前記営業主であることが明らかと認められる。

庄田が一良の番頭その他の使用人にすぎない地位に在るものとして、原判決認定のように亡源次郎から設備暖簾を相続した一良が営業主として庄田に包括的委任したものと認定することが一般常識に背馳し実験則上矛盾に満ちたものであることは次の事実によつても明瞭である。

たとえば徳川時代から続いている創業既に数百年といつた有名老舗の当主が幼少のためその番頭がその生涯の大半を老舗の使用人として捧げる事例は世上必ずしも稀でないけれども、前記「米谷メリヤス」はそのような老舗ではなく単に市井一無名の小企業にすぎない。若し庄田が一良の一使用人や単なる受任者にすぎないとすれば、庄田は大正五年七月から昭和二六年一〇月一五日に至るまでの実に四〇年に近い長年月をもつぱら他人の使用人又は経営受任者として勤務し、一旦は営業主の母親と入夫婚姻しながら依然使用人の立場に甘んじ営業主を七才の時から養育して大学まで卒業させ他家の犠牲となつて尽瘁し齢を重ねること六〇年に垂んとして解雇せられたものということになるであらう。若し庄田が右の如き地位に真実あつたとするならば正に常識を絶した奇特人というのほかない。しかしながら庄田は豊富な営業経営の才幹を具えている人物であつて到底四〇年間も他人のためにのみ働くことに甘んずることはその能力から見ても不可能と解せられる。庄田程の営業経営手腕を具えた者ならば独立営業の主となることを欲することこそ自然である。

若し仮に庄田が米谷の一使用人としてその営業施設の一部の利用による営利行為を許されていたものとしても、米谷の全財産たる前記東野田町の工場設備は戦災により消滅し、その従前の営業も国家の経済統制により自由営業が不能となつていたのであるから、庄田が単なる使用人にすぎないならば既に営業上の資産等その実体が存在しなくなつている「米谷メリヤス」になお固執する理由なくその経営上の手腕を戦後の経済混乱に発揮して独立営業を創立したであろう。そのような結果とならなかつたのは偏えに庄田が既に「米谷メリヤス」の営業主であつたからにほかならない。戸主たり父たる者が子の営業上の使用人や営業に関する受任者にすぎないという如き関係は社会生活上存しない。

若しまた庄田が使用人や経営受任者にすぎないものとすれば、フジとの入夫婚姻を解消し又内縁関係の消滅した際になお「米谷メリヤス」に留まり引続きその営業活動の中心として尽力した理由を理解することを得ない。右の如き身分的関係の解消以後の「米谷メリヤス」の営業との関係に照らしても庄田が右営業主であつたことを知るに足りる。

また庄田が使用人として一定の給料を一良から毎月定期に支給を受けていた事実もないのである。

以上いずれの点よりするも、庄田と一良の関係として実在したものは、庄田が大正三年一一月以来メリヤス製品の製造販売業を自ら営業主として連綿として継続経営し、大正五年七月から本件訴訟に至るまで一良の母フジの事実上の夫であり、一良を七才の頃から養育してきた事実上の父親であつたという関係である。

ところで庄田は戸籍上の記載によれば昭和一六年二月五日奥田つると姻婚し稔、博、潔の三子の父であり、且つその本籍が大阪市東淀川区十三東之町四丁目二七番地の五に存する。そこで以下に右戸籍記載の如き身分関係の事情を明らかにする。

昭和三年頃庄田は当時三四才の女性奥田つると懇ろになり情交を結んだ。庄田は三八才の壮年であるのに引きかえフジは既に五四才に達していたことを思えば無理からぬなりゆきであつた。そして庄田はつるとの間に昭和四年六年及び一〇年に稔、博、潔の三男子を儲けたのであるが、前記のようにフジとの内縁関係を継続していて事実上の夫婦としての同居生活を営んでいたのでつるとの婚姻や同女との間の子の出生に付戸籍の届出をするわけにもゆかないため、稔を尾上寅蔵と右つるの二男、博を赤土藤太郎、ツルの六男として出生届をなし、潔については昭和一六年まで未届のままに放置し就学の必要に迫まれ止むなく同年二月五日大阪市東淀川区十三東之町四丁目二七番地の五の住所に新戸籍を作り始めて奥田つるとの婚姻届をして稔を庄田の養子、博をその継子男として各届出、かつ潔を自分の子として出生届をしたのである。それでもなおつるとの関係は秘密の関係として同女と継続的同居をしたことはなく時折同女の許に忍んで行くにすぎなかつた。

以上のような身上の事情はあつたけれども庄田がなおフジとの事実上の結婚生活を営み米谷家の戸主として、また一良の父としてその扶養教育にあたり、従前からの自己の営業を主宰継続してきたことに変りがなかつたのである。

次に本件土地建物買受に関する事実経過及び当時の事情を検討する。およそ社会生活上不動産を買受けるについては一般に(一)目的物の物色乃至仲介の依頼、(二)目的物の発見、(三)目的物の検分及び売主との面談確認、(四)代金等売買条件の交渉、(五)代金の調達、(六)代金の支払、(七)登記手続の完了、の一連の段階を経るのを通例とするが、当該場合の目的物の価格が高額であれば高額である程慎重な手続が踏まれ買主が自ら直接に右折衝に関与するのが普通であつて、他人に一切を委せきりにすることは余程特別の事情がある場合でなければ行なわれないところである。本件不動産の価格は昭和二二年当時でも金七〇万円余に達するのであるから買受に関する右一連の経過に付少くともその一部分には買主が関与する筈と思はれる。特に買主が会社等大規模な企業体でなくして個人の場合には尚更のことである。そこで本件売買締結に関する具体的状況を見ると左のとおりである。

最初本件不動産を見出したのは庄田末吉であつた。庄田は戦災に因つて経営していた大阪市都島区東野田町三丁目六一番地の工場を失つたので昭和二一年再び営業を開始するため同市城東区野江西之町二丁目六一番地日本鉱業株式会社の工場の一部約六〇坪を同社営業部長大下直次郎と交渉して代金一五万円で買受けた。そして右大下部長の紹介で大工中道義雄に依頼して工場の改造工事を計画中同人から右工場から東え約一丁半距たつた所にある土居産業の工場が売りに出ていることを聞知したので早速土居産業株式会社に赴き土居勲に面接し本件不動産を初見分し庄田が他の何人にも諮ることなくもつぱら自己の判断で買取るべきことに決定した。自ら営業主と主張する一良は本件不動産売買に先立ちその現場を下検分もしたことがない。

代金額もその他売買の諸条件の決定も庄田単独の判断によつて売主土居産業株式会社代表者土居勲と折衝決定したのであつて、一良はこれに関与したことはない。そして右代金支払に充てる資金は庄田が自ら調達所有する金員を支出したのである。庄田の営業である米谷メリヤスは戦時国策に従い企業の整備統合の措置により他の営業者山下宇三郎、山下義雄、小野富次が統合して大阪メリヤス製造株式会社を設立して庄田は米谷一良の名義を使用して自ら同会社の代表者の地位に就いた。同会社は終戦直前未加工の織布生地(原反という)の配給を受けてその晒加工のためこれを浅利晒研究所(同市東淀川区淡路町所在)に寄託していたところその中約六〇〇貫が焼残つて終戦を迎えた。そこで庄田は前記同業者等から右焼残り原反の贈与を受けその全部を同市北区葉村町森川縫工場に加工委託して丸首シヤツ、シミーズ等の成品に仕上げさせこれを一般市場で販売して得た現金と、戦時中庄田が実質上は所有者であるが形式上前記会社の名義となつているメリヤス生地であつて、庄田の実家のある奈良県北葛城郡高田町大字有井に疎開させていたのを終戦後大阪市に運んで加工成品に仕上げたものを売捌いて得た現金を加えた約一〇〇万円を前記芦屋の居宅に保管していたのでこれをもつて前記買受代金の支払いに充てたのである。終戦前後の社会経済の激動期に療病に努めていた一良が多額の現金を入手し得る商取引活動を遂行する能力を有しないことは明かであつて、本件不動産買受代金は一良の所有財産たる資金をもつて支払われたものではない。

庄田は本件不動産を買受けることが決定したので早速前記芦屋の自宅に電話して手付金として支払うべき一〇万円を持参するよう伝え一良の妻栞が電話を受け当時芦屋の宅に出入していた松下栄に現金を託して庄田のもとに持参させ庄田がこれを受取つて自ら土居産業株式会社事務所に携行して売買手付金一〇万円として直接土居勲に手渡したのである。次で昭和二二年四月一七日頃庄田はかねて前記自宅六畳間桐タンス中に保管中の現金中約六五万円(一〇〇円札約六五束)を栞に命じて取り出させ、同家応接間においてこれを黒色ボストンバツグに入れて自ら携帯して売買代金残額の支払のために所定の場所に行かうとしたところ、庄田の老令を案じた一良の勧めで居合わせた松下栄を同行することになり、同人に右のバツグを持たせ一緒に大阪市谷町にある静司法書士事務所に赴き、同所で前記土居勲に代金残額の支払として右携行した現金を引渡し、引換えに買受不動産の所有権移転登記手続の必要書類一切の交付を受け取引を完了したのである。松下栄が直接一良から代金支払に充てるべき現金の交付を受けて庄田と同行し、売主に対しては松下が一良の代理人として自ら金員を交付して代金の支払をしたという事実関係ではない。松下栄は一良の代理人又は使用人として代金支払事務の代理若しくは代行の委任を受けたものではなく、単に庄田に同行し事実上バツグを運搬すること乃至は庄田の身辺を護することを頼まれたものにすぎないし、残代金支払完了後領収書その他登記関係書類を芦屋の居宅に持ち帰つたのも唯庄田の使者をつとめにすぎないのである。

また本件不動産売買締結における行為当事者の内心を探究するのに、庄田はもとより自己のために本件不動産の売買契約をしたものであるし、他方売主の代表者たる土居勲は売買当時には未だ一良本人を知らず現実に取引折衝に当つていた庄田自身をその自称するところに従つて買主たる米谷一良本人と認めていたのである。したがつて買主は米谷一良と称した庄田その人に外ならない。庄田は米谷の代理人なる旨の表示をして契約をしたのではなかつたのである。

以上によれば本件不動産の売買契約の効果としてその所有権が帰属する主体は「米谷一良」という符徴によつて表示せられた庄田末吉であるといわなければならない。ところで右買受にかかる不動産の所有名義が登記簿上一良となつているのは前にも主張したように、昭和一五年に税金の滞納処分により庄田所有名義の不動産の公売処分を受けたのに懲り、爾来税金の強制徴収を免れる目的で、表面上一良の名義を使用して営業を継続してきた関係から、本件不動産をも一良名義にしておくことが却つてこれに担保権を設定する等その利用上便宜であるばかりでなく、一良名義にしておく方が営業経営の信用上も有利であり徴税対策上も得策であるとしたことによるものである。しかし一良の名義を借りることに付別段同人の承諾を求めてこれを得たわけではない。

庄田は大正三年一一月以来数一〇年に亘り、米谷フジの事実上の夫として円満に夫婦としての同居生活を続け、また一良の父としてその幼時から養育に努め、その発病にあたつては十分な療養費をも負担出捐し、父としてなすべきところを果して缺けるところもなく、且つ終始米谷メリヤスの営業主として、その経営一切を自ら主宰統轄してよくその維持発展を実現してきたものであること、右に縷述したとおりであつたのに本件訴訟上の紛争が生ずるに至つた経緯としては左のような事情があつたのである。

奥田つると庄田の前記の関係はフジには全く覚られず昭和二五年頃までフジや一良と庄田との家庭関係は円満平穏に推移してきた。ところが昭和二五年頃前記の稔が在学していた同志社大学の担任教授が庄田の不在中前記野江の工場を訪ねフジに面接した際の話によつて、フジは始めて庄田とつるの関係を知かに至り爾来次第に一良の将来に不安と危懼の念を深め、昭和二六年一〇月一五日フジ及び一良は西田四郎弁護士を代理人として庄田に対し老令を理由に営業経営からの引退と一良名義の印鑑の引渡を申出た。庄田は右申出を拒絶したところ、一良は同年一一月一七日フジを前記芦屋の宅に連れ帰つた。間もなく庄田の居住している本件建物中の工場に、一良が役員をしている中和商事という会社の使用人である久保田隆外沖仲仕、その他暴力団一〇余名が押し寄せ、庄田の退去を強要して一〇数日間に亘り本件工場を占拠した。このような事態に直面した庄田は、放置すれば自己所有の本件不動産もやがて一良に奪われるに至るであろうと懸念し、これを防ぐため同年一二月一九日登記上の所有名義を庄田に移したのである。

一審原告提出の甲第一号証の一乃至第三九号証は、対外関係における形式上米谷一良の名義が使用せられた事実を証明し得るにすぎず、実質上の営業主の何人なるかを認定すべき証拠力は皆無である。次に一審原告は多数の営業関係書類を甲号書証として提出し得たことは、とりもなおさず右各関係書類を自ら所持する事実を示すものであり、右所持の事実自体既に一審原告が営業主であつたことを証明するものである、と主張するかも知れないが、右書類は元来庄田が自ら芦屋の自宅仏壇の下抽斗に納めておいたものである。それを一審原告において前記フジを芦屋に連れ帰り庄田の出入を拒んだのにつれて入手するに至つたのである。昭和二六年一二月二二日の原審裁判官の証拠保全手続によるフジの臨床尋問当日には前記書類は既に従前の保管場所には存在していなかつた。しかも右当日は芦屋の宅においては、フジの尋問の行なわれた部屋を除き、他の室はすべて施錠又は釘付けせられて出入不能の状態とせられていた。しかもフジの尋問の直前、一良の学校の先輩になる久保田隆が、庄田末吉の氏名を記した自転車に行李を積み一良の子友良を伴なつて甲子園の中川清宅を訪れ、「明日裁判所が来てフジを調べるがその際庄田の衣類や書類があつては困るし、子供がおじいちやんと呼んだりしては都合が悪いから取調中だけ遊ばせてほしい。」、と説明して行李と子供を託したことに徴しても、一審原告の甲号各証の入手所持は不法不当な手段によるもので証拠力は存しない。一審原告援用の証人中、西田昌二、同吉田潔はいずれも米谷メリヤスの使用人であるが、西田証人は一審原告訴訟代理人の息子であるし、吉田証人はその不正行為のため庄田から解雇せられその後一良の紹介によつて、一良の友人中川清経営にかかり、且つ一良も役員の一員である中和商事に雇傭されている事情を考えれば、その証言の信憑力も消極的に評価せられるべきものであり、松下栄は一良の学校の後輩の関係で、その供述も誇張と虚偽に満ちたものである。証人玉村為治の証言も、同人がわずかに一、二回庄田の店と取引した事実に基くものであるし、証人石田日出夫の証言も、それ自体矛盾を含みいずれも信用するに足りない。証人和久田宗男の証言は、同人の主観的判断に基き証言したものと認められるし、証人米谷フジ、同米谷栞は共に一良の近親者としてその証言は虚偽が多く、右各証言ともに措信できないものである。

一審原告の本訴請求は、既に老令の庄田にとつてその全生涯に亘る苦斗の末の総決算として僅かに残された資産であり余生を送るべき唯一の拠り所ともいうべき本件不動産を奪わんとするもので、その失当なことは右に主張したところによつて明白である。

なお庄田が営業主として営んでいた米谷メリヤスの工場の所在地番は大阪市都島区東野田町三丁目三四四番地であり、その後区画整理により地番の変更が行なわれて「三丁目六一番地」となつた。

本件不動産の売主は「土居産業株式会社」であつて「土居薬品産業株式会社」ではない。

立証〈省略〉

原判決事実摘示の中に、一審被告庄田援用の証人として証人安川良雄とあるのは、証人安川こと保川良雄と訂正する。

と述べ、

一審被告千代田莫大小株式会社において、

千代田莫大小株式会社は昭和三五年三月五日商号を大和林業株式会社と変更し、また営業目的を従前の「各種莫大小製品の製造販売並びにこれに関連する業務」から「植林業、木材の売買並びにこれに付帯関連する業務」に変更して、同月一六日それぞれその旨の登記をなし、また昭和三五年九月五日本店を広島県大竹市大竹町栄町五〇番地に移転し、同月一四日その旨の登記をした。一審被告千代田莫大小株式会社(現商号大和林業株式会社)の事実上、法律上の陳述主張及び甲号各証の成立に関する陳述は、すべて第一、二審における一審被告庄田末吉の右に関する陳述と同一であるから、これを援用する。立証〈省略〉

と述べた、

外原判決事実記載と同一であるからこれを引用する。

理由

原判決添付目録記載の土地及び建物(以下本件土地建物と略称する)に付、売主名義を土居産業株式会社とし、買主名義を米谷一良とする昭和二二年三月二〇日付売買契約が締結せられたこと、右売買を原因として同年四月一七日一審原告名義にその所有権移転登記が経由せられたこと並びに右契約についてはその折衝締結につき買主側としては一審被告庄田末吉(以下特に必要と認められる場合を除き単に庄田と略称する)が自ら関与し一切を処理したものであることは、いずれも当事者間に争がない。

一審被告等は右売買に基き移転を生じた本件土地建物所有権の帰属主体の何人であるかに付、右買受代金の支払資金財源はもつぱら米谷莫大小製造所のメリヤス製造加工等の営業上の利潤に在つたのであり右営業は庄田が大正五年以来終始一貫その独力を傾けてその経営を統轄主宰してきた同人の単独営業に外ならないから結局庄田末吉自身に属する財産の出捐を対価として買い受けたものというべく、従つて庄田が本件土地建物の各所有権を取得したものであると主張する。

成立に争のない甲第四九号証の二、第四八号証の一、二、第五〇号証の一、第五二号証の一、乙第一号証の一、二

乙第三号証、乙第四、第二六及び第三二号証、成立に争のない各郵便官署作成部分と原審における証人米谷栞の証言の一部によつてその全部につき成立の認められる乙第五号証の一、二、前記甲第四八号証の一、二と当審における一審原告米谷一良(以下特に必要と認められる場合を除き単に一良と略称する)本人第二回尋問の結果及び弁論の全趣旨によつていずれも成立の認められる甲第四九号証の一及び第五三号証の一、二並びに原審におりる証人米谷フジの証言、当審における証人保川秀雄、米谷栞及び浅海シカノの各証言原審における一審被告庄田末吉本人尋問の結果及び当審における庄田末吉本人第一、二回尋問の結果(上記証言及び本人尋問の結果中いずれも後記の措信しない部分を除く)を総合すれば、以下の事実が認められる。

一良の父米谷源次郎は大正二年一二月一九日死亡するまで大阪市北区(後に都島区に編入せられた)東野田町三丁目三四四番地の二、(大正一五年四月一〇日六一番地に地番変更が行なわれた)。に工場を設け米谷莫大小製造所の呼称でメリヤス生地編立業を営んでいたが死亡により長男卯三郎が家督相続をし、源次郎の後妻で卯三郎には継母になる米谷フジは分家して一良もフジに伴なつて同一戸籍に入つたのであるが、亡源次郎の右営業は源次郎死亡当時卯三郎が徴兵服務中であつたため、米谷フジが源次郎の遺した営業上の負債を引受け、また大塚嘉平衛からメリヤス製造機械等を賃借して前記営業を継続することになつた。しかし当時未だ学令にも達しない幼少の一良とその弟宇一を抱えたフジの女手一つでは到底右営業経営続行の任に堪えず、大正四年五月項からはメリヤス編立機械その他付属施設一切を浜浦亀之丞及び喜田正一に賃貸し、米谷莫大小製造所としては暫く営業を休止する外ない状況となつた。庄田は源次郎の生前明治四〇年代に源次郎に雇われ米谷莫大小製造所に住込みでメリヤスの製造販売業に従事し、徴兵により三年間の軍務に服した後大正三年に満期除隊となつて再び米谷莫大小製造所に復職しようとしたところ、在営中既に源次郎が死亡し未亡人フジは前記のように営業を休止し二児を抱えて手狭まな借家に逼塞している状況であつたので、除隊後暫くの間はかつて米谷莫大小製造所が賃借使用していた工場の一隅を自分で借受け独立してメリヤス編立業を営んでいたとこる、主家の援助再興を名分として勧める人があつたので、大正五年七月米谷フジと入夫婚姻し同月二五日その旨の戸籍の届出を了し、大阪市北区東野田町三丁目三四四番地の二に夫婦並びに一良、宇一等源次郎の遺児と同居し、庄田が中心となり事実上もつぱら庄田の労務と経験と源次郎以来の老舖に依拠立脚して米谷莫大小製造所の呼称による従前のメリヤス生地編立の営業を再開することになり、同年八月末頃には米谷フジと浜浦外一名との間の前記メリヤス編立機械等の賃貸借も解約して右機械等の返還を受けた。また幼少の一良及び宇一に対しては庄田が事実上の父として実母フジと共にその監護養育にあたるようになつたのである。ところが程なく前記の卯三郎外亡源次郎の米谷家親族の一部の者からの強い反対と異議が唱えられたために庄田とフジの法律上の入夫婚姻関係は解消するほかなくなり、同年九月八日協議離婚の届出を了し、これに伴ない一良が家督相続して同日その旨戸籍の届出をした。庄田と米谷フジとは右離婚届出により法律上の夫婦ではなくなつたけれども引続き事実上の夫婦として前記の場所で同居していたのであつて、このような事実上の、少くとも外見上夫婦らしい同居生活の関係は、後記のように戦災によつてその住居に移動のあつた以外は、従前と何等の変化もなく継続せられて昭和二六年一〇月頃に及び、庄田と一良及び宇一の間の事実上の父子関係も昭和二五年頃までは継続していた(もつとも宇一は昭和一六年三月一二日に戦死した)のであつて、その間一良は大阪市の関西甲種商業学校卒業後昭和五年四月明治大学商学部に入学し昭和八年三月に卒業して帰宅したのであるが、学資の送金手続はその都度庄田の指図に従つて続けられたのであり、一良の結婚についても庄田が自分の親戚知人に斡旋を依頼して昭和一二年四月栞との縁談を成立させ、その結婚式にも庄田は一良の養父の資格で列席した。

以上の事実が認められ、原審における証人米谷某、米谷フジの各証言、原審と当審における一審原告米谷一良本人尋問の結果の中、庄田と米谷フジ及び一良の間の事実上の夫婦若しくは親子関係の存否に関し右認定と牴触する部分は弁論の全趣旨に照らしていずれも信用することを得ず、他に右認定を覆えすに足りる証拠はない。

米谷莫大小製造所の営業が、少くともその当初においては、もつぱら庄田の労務に依存して再開せられたことは右認定の如くであり、爾来引続き存続してきたことは当事者間に争がないところであるから、右営業に関しその法律上の主体が何人であるか、右営業に関し庄田が法律上如何なる地位にあつたものと認めるべきものであるかに付以下に検討する。

成立に争のない甲第三五号証の一乃至一四によれば、大阪市北区東野田町三丁目三四四番地の二所在の賃借家屋に付大正五年一月分以降大正一二年一二月分までの賃料を米谷フジ名義で、右同所の借受土地に付大正五年一月分以降大正七年一二月分頃までの賃料は米谷源次郎名義で、大正一〇年頃以降大正一三年二月分までの土地賃料は米谷一良の名義で、各貸主熊田兵蔵に支払い、大正一三年一月分以降昭和一九年二月までの右土地若くは家屋又はその双方の賃料は米谷フジ及び米谷一良の連名若しくはその中いずれかの単独名義で、貸主熊田種次に継続支払をしていることが認められ、

成立に争のない甲第四三号証と甲第五三号証の三によれば、大正七年一月一一日付で買主名義を米谷一良として大阪市北区東野田町三丁目六七番地(旧番地三七八番地の一)木造瓦葺平家建工場一棟、建坪四二坪、付属建物木造瓦葺平家建工場一棟、建坪一五坪を宇治トラから買受け、同日付で米谷一良名義で代金の一部として宇治トラに金一六七円六〇銭を支払つたことが認められ、

当審における一審原告本人第二回尋問の結果と弁論の全趣旨によつて成立の認められる甲第四六号証の三によれば、大塚嘉吉に対して大正六年一二月末日から大正七年一一月一日までの間に七回に亘り米谷一良名義で合計金一、六〇〇円の金員の支払をしたことが認められ、

成立に争のない甲第三六号証の一乃至四によれば、大正九年八月二日から大正一〇年八月一日までの期間藤田銀行野田橋支店において米谷一良名義の特別当座預金取引がなされたことが認められ、

成立に争のない甲第二八号証の一乃至四、甲第四五号証の一、二によれば、大阪市北区東野田町三丁目三四四番地上所在米谷一良所有名義の木造瓦葺平家建メリヤス工場一棟、建坪四五坪五合、同所平家建工場一棟、建坪二一坪を保険の目的とし、保険契約者名義を米谷一良として、帝国火災保険株式会社との間に、保険期間の始期を大正一二年五月二日、保険金額を五、〇〇〇円とする火災保険契約を締結し爾後昭和二年頃まで継続し、その間所定の保険料の支払をしたことが認められ、

前記甲第三六号証の五乃至八と弁論の全趣旨によれば、昭和二年五月四日山口銀行北支店において米谷一竜名義の特別当座預金取引が開始され、昭和五年一一月末頃まで右取引が継続されていたこと、及び「米谷一竜」とは当時米谷一良と同義に慣用されていた名称であることが認められ、

当審における一審原告本人第二回尋問の結果と弁論の全趣旨によつて成立の認められる甲第四七号証の一乃至三、並びに右本人尋問の結果の一部によれば、借主を米谷フジ、保証人を米谷一良として、株式会社大阪貯蓄銀行から、同銀行に対する据置貯金を担保に昭和八年一〇月一〇日付金九、〇〇〇円を借受け、同年一一月二九日にも借主及び保証人名義を右同様として同銀行から金一、〇〇〇円を借受けて、これらをいずれも営業資金に充てたことが認められ、

成立に争のない甲第二三号証の一乃至一五によれば、昭和一〇年二月九日、保険契約者の名義を一良として日本海上保険株式会社との間に、(一)保険の目的を大阪市北区東野田町三丁目六〇番地、木造瓦葺平家建工場一棟建坪約二四坪、木造瓦葺平家建工場一棟建坪約四八坪、保険金額三、〇〇〇円、保険料金二七円、(二)保険の目的を、上記各建物内設置の各種メリヤス製造機械その他付属設備一切並びに同建物内所在の原糸、半製品及び製品等一切、保険金額一万二、〇〇〇円、保険料金一〇八円、と各定めた火災保険契約を締結し、爾後右契約を継続して昭和一九年二月九日に及び、その間一良名義をもつて所定の保険料を支払つたことが認められ、

前記甲第四七号証の一及び当審における一審原告本人第二回尋問の結果と弁論の全趣旨とによつて成立の認められる甲第四七号証の四並びに右本人尋問の結果の一部によれば、昭和一〇年五月二七日米谷フジを借主、一良を保証人とし、株式会社大阪貯蓄銀行に対する米谷フジ名義の既存の二口の積立貯金債権を担保に同銀行から金八、〇〇〇円を借受けて営業資金に充てたことが認められ、

成立に争のない甲第二六号証の一(記載の日付が昭和一一年とあるのは昭和一二年の誤記と認める)と弁論の全趣旨によれば、米谷一良はその営業取引に関し神戸区裁判所に対し、合資会社村田中央ゴム工業所外一名を被告として訴を提起したことが認められ、

成立に争のない乙第八号証の一、二によれば、大阪区裁判所は大阪市北区東野田町三丁目六〇番地に工場を設けメリヤス生地編立業を営む工業者である被告人右同番地米谷末吉が、昭和一三年三月二二日頃から同年六月六日頃までの間、右工場において三二回に亘り、所定の割当票と引換えないで国内用品製造に使用する純綿糸八番手乃至三〇番手一六八梱二〇玉を、編糸商人たる上村輝男外一名から代金合計五万七、七二三円で買受けた事実を認定したうえ、輸出入品等臨時措置法第二条第五条、綿糸配給統制規則第三条、刑法第五五条第一八条を適用して、昭和一三年一一月一七日略式命令により、右米谷末吉を罰金二、〇〇〇円に処し、庄田が同年一二月一七日米谷末吉名義をもつて右罰金を納付したことが認められ、

成立に争のない甲第二一号証の一によれば、大阪内地メリヤス裁縫工業組合は同組合員米谷一良に宛てて昭和一三年一一月一〇日付で組合員出資証券を発行したことが認められ、

成立に争のない甲第五四号証と弁論の全趣旨とによれば、三和銀行網島支店との間に米谷一竜名義をもつて、昭和一三年一一月一二日から一年間、当時米谷莫大小製造所と継続的取引のあつた広島市の奥田ゴム工業、田村工業等数名に対する手形による代金取立委託取引をしていたこと、及び「米谷一竜」なる名義は当時においても一良が取引上使用していた別名であつたことが認められ、

成立に争のない甲第四四号証の一、二によれば、昭和一四年一月三一日付郵便をもつて広島陸軍被服支廠から米谷商店を名宛として、同店が綿糸を買入れて自らこれを製織した場合の綿布価格につき照会を受けていることが認められ、

前記甲第四七号証の一、当審における一審原告本人第二回尋問の結果と弁論の全趣旨とにより成立の認められる甲第四七号証の五、六並びに右本人尋問の結果の一部によれば、米谷フジを借主、米谷一良を保証人として株式会社大阪貯蓄銀行から昭和一四年七月五日金五、〇〇〇円、同月六日に金二、二〇〇円を各借受けて営業資金に充てたことが認められ、

成立に争のない甲第五五号証と弁論の全趣旨によれば、従前の米谷莫大小製造所の営業一切を実質上の基盤として、昭和一四年七月一〇日メリヤス生地編立販売並びにその付帯事業一切、右関聯事業に対する資金貸付及び投資を営業目的とし、本店の所在地を大阪市北区東野田町三丁目六一番地におき、存立時期として設立の日より満三〇ケ年と定め、資本総額五、〇〇〇円とする「株式会社米谷商店」を設立して一良が代表取締役に就任し、また当時存命していた一良の実弟松本宇一も取締役の一員に加はり、同月一二日その登記を経たが、庄田は右会社の取締役若しくは監査役にも就任したことがなく、庄田の関係者としては唯その親族である西川音吉が監査役に就任しているだけである、という事実が認められ、

成立に争のない甲第三二号証によれば、昭和一六年戦時企業整備のため数名のメリヤス生地編立業者を統合して庭窪莫大小生地工業小組合が設立せられるに際し作成せられたその原始定款には、設立者の一人として米谷一良の記名押印が存し、大阪府知事に対する右工業小組合設立認可申請書には、米谷一良が理事として名を列ねていることが認められ、

成立に争のない乙第二七号証の二、原審における証人米谷栞及び米谷フジの各証言の一部、原審及び当審における証人吉田潔の証言、当審における証人保川秀雄、西谷勇及び川島憲次の証言の各一部並びに弁論の全趣旨によれば、買主名義を米谷一良として昭和一六年一二月二日樽本吉兵衛から芦屋市月若町七一番地、家屋番号芦屋四六二番、木造瓦葺二階建居宅一階二八坪四合六勺、二階二七坪六合を買受け同日受付によつて一良の名義で右建物所有権移転登記を経由し、その後一良夫婦が右建物に移り住むに至つたが、右建物は従前の住所である大阪市北区東野田町三丁目所在メリヤス工場付属の居宅建物に比較すれば、その場所的環境も建物自体も格段に快適宏壮であつて、引続き右旧宅に居住していた庄田及びフジも、またその他当時の従業員等も共にこれを芦屋の本宅と呼んでいたことを窺うことができ、

成立に争のない甲第二一号証の二、三によれば、大阪莫大小生地工業組合は昭和一六年九月一日付を以つて、組合員米谷一良を名宛人として、米谷一良が金三〇〇円及び金五〇〇円を同組合に出資して日本内地莫大小統制株式会社の株式を共有する旨記載した株式共有証二通を発行したことが認められ、

前記甲第四三号証及び成立に争のない甲第五五号証によれば、昭和一七年三月二〇日買主名義を米谷一良として、売主株式会社米谷商店との間に、大阪市北区東野田町三丁目七六番地上木造瓦葺平家建工場一棟、付属木造瓦葺平家建工場一棟の売買契約を締結し、同月三一日右売買を原因として一良名義に右建物所有権移転登記を経由したことが認められ、

前記甲第三二号証、各成立に争のない甲第四〇、第五六及び第五七号証、乙第二四号証並びに弁論の全趣旨によれば、昭和一九年一一月一七日大阪市都島区東野田町三丁目六一番地を本店所在地として、メリヤスの製造加工を目的とする大阪莫大小製造株式会社が設立せられ米谷一良はその代表取締役として登記せられた。右会社は米谷一良所有名義の東野田町三丁目六〇番地上木造瓦葺平家建工場二棟等から成る前記米谷莫大小製造所の営業の中販売部門を除く爾余の一切を事実上承継遂行することになつた(但し右株式会社設立につき前記株式会社米谷商店との関係その推移の経過並びに米谷莫大小製造所の従前の営業が一括して現物出資等により同会社の物的基礎となつたものか否か等につき、その法律上の形式が如何なるものであつたかということまではこれを認定すべき証拠資料がない。)のであるが、戦局悪化に伴ない十分な営業活動を行なう余地もなく、対外的には事実上依然米谷一良名義による個人企業の形態を維持していたのであり、やがて昭和二〇年六月七日大阪市の空襲によつて前記工場建物等営業施設は殆ど挙げて罹災焼失してしまい、間もなく終戦に至り、その前後から右会社と同様戦災被害を蒙つた大阪市内のメリヤス製造業者が相寄り協力して営業の再建を図り、その方策として、戦時中国策として推進せられ終戦直後当時にはなお残存していた民間企業の整備統合の行政措置に関する形式を藉り、従前各自独立してメリヤス製造加工営業を営んでいた大阪莫大小有限会社等数名の営業者がその所有の各種工業用裁縫機械等営業施設一切を前記会社に一括譲渡しその営業を統合して前記大阪莫大小製造株式会社の名義による営業として再建復興を遂行することとなり、同社取締役社長米谷一良の名義をもつて昭和二〇年一〇月二九日大阪府知事に対し繊維工業設備譲受許可申請書を提出し、同年一一月一五日付をもつて知事の許可を受けた。右譲渡に至るまでは、大阪府莫大小製造統制組合に対し、大阪市都島区東野田町三丁目六一番地米谷一良の所有としてメリヤス肌衣縫製用動力ミシン三一台が登録されていた。ところが結局終戦直後の社会経済全般に亘る未曽有の混乱、激動の裡に同会社による営業経営も実行の段階に至らないままに前記営業の統合再建策は事実上霧散し、その間も依然として米谷莫大小製造所の個人企業の旧態を維持したまま推移してきたものであること、なお前記株式会社米谷商店は終戦前後には解散していたことを、いずれも推認することができ、(もつとも右株式会社米谷商店の設立以降の法的存在の帰趨に関しては具体的状況を明確に認めるに足りる証拠資料が十分でない)、

当審における証人川島憲次の証言によつて成立の認められる甲第六〇号証と右証言とによれば、米谷一良は昭和二一年春頃自ら川島憲次に面接して手持の人絹メリヤス生地をシミーズ丸首等に加工裁縫すべきことを委託注文し、その出来上り後約定加工賃料額を同人に支払つたことが認められ、

成立に争のない甲第二六号証の二乃至二七、原審における証人和久田宗男の証言によつて成立の認められる甲第三号証の三、並びに原審における証人和久田宗男、玉村為治及び石田日出夫の各証言によれば、全日本莫大小株式会社から米谷一良を名宛人として、昭和二二年五月一四日付の郵便をもつて株主総会延期の通知をなした外昭和二一年五月頃から昭和二四年一一月頃までの間に繊維取扱商社、製糸会社、大阪莫大小工業協同組合又は大阪府莫大小製造統制組合が、いずれも米谷一良を名宛人として、郵便により各種の連絡やその他の通信をなしていること、並びに米谷莫大小製造所としての前記協同組合や統制組合との関係事務処理については、一良の大学卒業以後は昭和二〇年頃前後数年に亘る同人の病気療養期間を除けば一良が集会に出席したり組合と折衝することが多かつた事実が認められ、

成立に争のない乙第一七号証の一乃至七によれば、いずれも振出人名義を「大阪市城東区野江中之町二丁目一六米谷一良」及び「兵庫県芦屋市月若町七〇米谷末吉」の連名若しくは「大阪市城東区野江中之町一六米谷莫大小製造所代表者米谷一良」及び「兵庫県芦屋市月若町七〇米谷末吉」の連名とし、受取人を株式会社三和銀行と定めた、振出日付昭和二三年三月二四日、同月三〇日、同年四月八日、同年六月三〇日、同年七月六日、同月一三日及び同月二九日の各約束手形を振出し、右手形金合計金一二五万円は同年一〇月八日の支払を最後としてそれまでに全額支払済みであることが認められ、

各成立に争のない甲第二四号証の一乃至九、甲第三八号証の一乃至四及び甲第三九号証によれば、保険契約者名義を米谷一良として大正海上火災保険株式会社との間に昭和二三年七月一五日、(一)保険の目的、大阪市城東区野江中之町二丁目一六地上所在、木造瓦葺平家建住宅一棟三五坪、木造瓦葺平家建住宅一棟三〇坪、木造瓦葺平家建住宅一棟、五五坪、保険金額一七〇万円、保険料年間一万七、〇〇〇円、(二)保険の目的、右同所地上、木造スレート葺平家建工場一棟五五坪、同建物内所在メリヤス編立機械大丸二〇台、糸操機械一五台等機械類一式、木造瓦葺二階建工場一棟七二坪及び同建物内所在「オーバードツク」一一台、仮縫一三台、本縫九台等機械類一式、保険金額二五〇万円、保険料年間四万円、(三)保険の目的、前同所所在の木造瓦葺二階建七二坪の工場一棟内にある商品一切及び木造スレート葺平家建五五坪の工場一棟内にある商品一切、保険金額五〇万円、保険料年間九、〇〇〇円、(四)保険の目的、芦屋市月若町七〇番地上、木造瓦葺二階建、付属建物とも八二坪六九及び家財一式、保険金額三〇〇万円、保険料年間二万一、〇〇〇円、と各定めた火災保険契約を締結し、爾後昭和二六年七月まで契約を継続したことが認められ、

原審及び当審における証人吉田潔の証言と弁論の全趣旨とによつていずれも成立の認められる甲第一一号証の一、二、甲第一二及び第一四号証と証人吉田潔の右各回証言を総合すれば、米谷一良は昭和二五年七月頃米谷莫大小製造所の付帯事業として、自家製品の染色作業を一手に引受けて処理するとともに一般綿製品取扱業者からの染色委託加工をも引受け営業すべき染色工場を創設し、その運営については高橋一男と契約を締結して高橋が直接事実上の経営にあたることとし、その報酬として右営業収益の一定割合を同人に分配すべきことを定め、右営業は現実に発足せしめられて継続し、昭和二六年一二月末頃には右高橋において染色加工賃名義で他から受取つた小切手及び約束手形金額合計約三〇万円を、米谷一良に対する昭和二五年度税金支払に充てる目的で、庄田の寄越した使者に託したこともあつたという事実が認められ、

成立に争のない甲第二五号証の五によれば、昭和二五年二月二七日「野江中之町二丁目一六番地の一米谷一良」の名義で、昭和二四年度分地租及び同付加税九五一円を納付したことが認められ、

銀行作成の普通預金通帳であつて弁論の全趣旨によつて成立の認められる乙第二一号証によれば、昭和二六年一月二六日から昭和二九年六月四日まで米谷末吉の名義をもつて大和銀行との間に普通預金取引が継続していたことが認められ、

成立に争のない乙第二号証の一乃至三によれば、昭和二六年五月一二日から昭和二七年五月一一日までの一年間、米谷莫大小製造所代表者米谷一良の名義をもつて大和銀行野江支店との間に当座預金取引が継続されていたことが認められ、

成立に争のない乙第一二号証の一、二によれば昭和二六年一月頃今川証券株式会社に対する米谷末吉の名義による委託に基き京阪電鉄株式会社株式七〇〇株を買受けたことが認められる。

以上認定の全事実を総合しその経過を考察するときは更に次の事実を認めるに足りる。

米谷源次郎に創始せられ同人の個人企業であつた米谷莫大小製造所は源次郎の死亡後約三年の間休止状態に在つた後、前記のとおり庄田が米谷フジと入夫婚姻することによつて再開せられて以来引続き存在し、その間委託に基くメリヤス生地編立業に限られていた当初の営業種目は拡張せられて、自ら原糸を買入れてメリヤス生地に製織編立して販売するようになつたのであり、また昭和二〇年六月一七日には空襲によつて大阪市都島区東野田町三丁目六一番地所在の工場居宅建物その他営業施設一切が焼失し、しかもその後につづく終戦前後の社会経済の混乱激動のため約二年間は事実上営業活動を休止する外なかつたが、やがて昭和二二年三月には前記認定のとおり新たに買受けた同市城東区野江中之町一六番地の本件土地建物を工場として事業を復興するという経過を辿つたのである。そしてこのような推移の過程を前後一貫して米谷莫大小製造所という呼称による営業としてその同一性を維持してきたものであり、右営業は少くとも前記認定のとおり大正五年九月八日戸主末吉の入夫離婚により一良が家督相続したことによりその時以後は、一良に帰属するものとなり、一良が右営業の主体たる地位に就いたのである。しかしながら家督相続した当時一良は未だ学令にも達しない幼児であつたし、フジは営業経営の能力を期待し難い一介の家庭の主婦であつて、右営業経営を事実上主宰する如きことは到底望み得なかつたために、庄田は米谷フジと事実上の夫婦として同居し且つ一良及び宇一の事実上の養父としてフジと共にその養育監護にあたつているという身分的家族的関係の故に、このような人格的関係の上に立つて専ら自らの労力を傾けその判断に従い、従業員を指揮監督し、当初はメリヤス編立加工の受託、やがて前記のように営業種目が変更せられた後には原料糸の買付、工場における各種作業の実施、加工済メリヤス生地の引渡若しくは販売、工場施設の維持拡張等営利実現に関する一切の所要事務を統轄処理推進し右営業の経営に当つていたものであり、営業に関する対外関係の処理についても常に米谷莫大小製造所又は米谷一良の名において且つもつぱら右営業の帰属主体の計算において営業利益実現のために自ら直接当該行為の締結処理をしてきたのである。

以上の事実が認められる。そして右認定の諸事実に依拠して、米谷莫大小製造所の営業における庄田の地位関係を法律上如何なるものと認めるのが相当であるかを考察するときは、『前記のような身分的家族的な事実状態の存在を前提とし、これを基盤として、営業主たる米谷一良が未成年であつた営業開始の当初において一良の法定代理人親権者たる母フジが庄田との間の默示の合意をもつて庄田に対し右営業に関する法律的及び事実的行為を包括する集団的事務一切の継続処理を委託し且つ右営業経営に関し包括的な代理権を授与し、これにより庄田は右営業に対する関係においては実質的には法律上の支配人たるの地位を有したものであり、しかも庄田の右営業支配権は、それが前記のように庄田とフジ及び一良との身分的関係に基くものであるが故に、当初から、このような身分的関係が事実上存続している限りは一良の成年に達した後も何等の変動なく継続すべきものと予定せられていたのである。そして現に一良が成長して成年に達し法律上は直接自己の名において自ら有効に取引を締結し得るようになつてからも従前庄田の有していた地位は何等変更せられるところはなかつたのであつて、庄田が引続き同一の資格において営業活動全般についての事実上の推進指導にあたることについては一良においてももとより一点の異議はなく暗默に承認していたところであるばかりでなく、更には右権限にあわせて営業上の必要に従い便宜随時に米谷一良自らのその名義による行為の代行として事実上庄田が自ら直接に行為の締結にあたりながら庄田末吉の名は一切表示せず、もつぱら米谷莫大小製造所米谷一良の名義をもつてすることを得る旨一良の默示の承認を得ていた。』ものと認めるのが相当である。(なお一良未成年の間においても、庄田が前記支配権限の行使として、米谷莫大小製造所の商号による営業に関する対外関係の事務を処理するに付、各具体的場合においてその都度厳格に庄田の代理資格とその氏名を表示して当該行為を締結したわけではなく、唯「米谷莫大小製造所」若しくは「米谷莫大小製造所、米谷一良」の名義のみを表示して行為するのを例としたことが前掲各証拠によつて窺われるけれども、それらの各具体的場合の相手方はすべて、右表示にかかる「米谷莫大小製造所」という商号の営業の主体たるべき者、若しくは米谷莫大小製造所の商号で営業をなす米谷一良なる特定人を、当該取引の相手方当事者として認識し、これと取引を締結する意思を有していたものであり、現実に自ら行為をなす庄田については、これを相手方当事者本人若しくは本人のため当該取引を締結すべき正当な権限を有するものと考えていたのであり、他方庄田においても米谷莫大小製造所という営業のために当該行為をする意思であつたことが亦前記証拠並びに弁論の全趣旨によつて認められるから、一良の未成年の間においても庄田自身の行為による営業に関する対外関係上の処理の効果はすべて法律上直接営業の主体たる一良に帰属したものと認めるを妨げないと解せられるのである。)

そして各成立に争のない甲第六号証の一、二、甲第七号証、甲第三一号証及び前記乙第三二号証、原審における証人土井多蔵の証言によつて成立の認められる乙第一〇号証の一、当審における証人磯部ふみの証言によつて成立の認められる乙第一〇号証の六、当審における庄田末吉第二回本人尋問の結果と弁論の全趣旨とによつて成立の認められる乙第三五号証、成立に争のない乙第三六号証の二によつて成立の認められる乙第三六号証の一、(但し上記乙第一〇号証の一及び六、第三五号証、第三六号証の一の各記載中いずれも後記の措信しない部分を除く。)、原審における証人米谷フジ、西谷政七、吉村ケイ、吉田潔、西田昌二、松下栄及び土井多蔵の各証言と、当審における証人米谷栞、松下栄、磯部ふみ、内田長七、吉田潔、西谷政七、浅海シカノ、庄田つる及び保川秀雄の各証言(原審及び当審における上記各証言中前記及び後記の信用しない部分を除く。)並びに弁論の全趣旨を総合すれば次のような事実が認められる。

一良は昭和八年三月明治大学商学部を卒業して帰郷し大阪市都島区東野田町三丁目六一番地の庄田及びフジの住居に同居し且つ既に成年に達していたが、若年でもありメリヤス製造販売に関する営業に全く無経験でありメリヤス製造の作業上の技術にも習熟していなかつたので帰宅後も庄田に代わつて直ちに自ら米谷莫大小製造所経営の陣頭に立ち現実にこれを主宰運営するというわけにはゆかず、たかだか米谷莫大小製造所の名義で加入している所属同業組合の集会に出席したり対組合関係事務を処理したりする外、本来の営業内容たるメリヤス製造販売の業務に関しては実務見習のかたわら随時庄田の教示を受けながら営業上の仕事を手伝う程度であつたが、そのうち昭和一八年頃から胸部の疾患のため入院したり前記芦屋の居宅において臥床療養していたのであつて、ために米谷莫大小製造所の営業は引続き庄田が事実上その運営を統轄遂行して昭和二六年に至つた。

ところで庄田は既に古く昭和三年頃から奥田つると情交を結び米谷フジを始め米谷家側の人達には厳に秘匿してつるとの関係を続けるうち同女との間に三子まで儲けたのであり、昭和八年頃には大阪市東淀川区十三東之町三丁目六三番地に借家してつると子供を住まわせ庄田は時折つるの許に忍んで通つていた(前記三子の中潔は同所で出生したのである)が、やがて太平洋戦争の戦局進展に伴ない、つるとその子を奈良県高田市に疎開移転させ引続き関係を継続していたところ、昭和二六年一〇月頃に至り、庄田につるという陰の女性がありその間に子まで儲けていることをフジ及び一良が知るに及び、ここに一良及びフジ母子と庄田の間に紛争を生じ遂に同年一一月一七日一良の強い意向により庄田とフジは別居するに至つた。

しかし右紛争の発生するまでの間は、庄田に付存した実質上の前記営業支配人たる地位及び一良名義の行為に関する一良のためにする前記包括的代行権限は、庄田とフジ及び一良の間における前記事実上の身分関係に随伴して存続せられ、終始何等の変動もなかつたものである。

以上の事実が認められ、原審における証人吉田潔及び西田昌二の各証言、当審における証人米谷栞、吉田潔の各証言、及び一審原告本人第一、二回尋問の結果中右認定に牴触する趣旨の部分は弁論の全趣旨に照らして信用することを得ないし、他に右の認定を覆えすに足りる証拠はない。そして右認定の事実によれば庄田が大正五年八月頃以降昭和二六年九月末頃に至るまでの間において、第三者との間に米谷莫大小製造所若しくは米谷一良の名においてした行為はすべて前記支配人若しくは代行者の地位においてその代理、代行権限の行使として営業主米谷一良のためにしたものであると認めるのが相当である。

これに対して、成立に争のない乙第六号証の一乃至一六によれば、大正六年以後昭和一三年に至る間毎年庄田末吉名義で同人が大阪市北区東野田町三丁目三四四番地の二所在の営業場においてメリヤス編立請負営業をなすものとして大阪北税務署から営業税を賦課徴収せられたことが認められ、成立に争のない乙第三三号証によれば、大正七年以後昭和六年までの間毎年庄田末吉名義で国税営業標札が交付されていたことが認められ、更に各成立に争のない乙第三一号証の一乃至三によれば、大阪市北区長が納税者名義を庄田末吉として納期を昭和一四年一月二〇日と定めた昭和一三年度第三期分所得税の納税告知及び納期を同年七月二〇日と定めた昭和一四年度第一期分所得税及び臨時利得税の納税告知をなしたことが認められるけれども、徴税官吏が庄田末吉を納税義務者と認めて同人名義で営業税の賦課処分や所得税等の納税告知等をしたからといつて、これをもつて当該営業の私法上の帰属関係についてまで庄田末吉がその主体たる地位にあるものと断定することはできない。蓋し国税等の賦課徴収の処分は、当該徴税吏員による、特定人についての納税義務成立要件の存否の認定を前提とするものであるから、庄田末吉がその名義において課税された事実は、当該徴税吏員において庄田末吉につき営業税若しくは所得税等納付の義務の発生要件事実の存在を認定したものであることを示すべき資料にはなり得ても、右認定が当該営業と、納税義務者と認定せられた特定個人との間に存する私法上の法律関係の実質や真相までも確定する効力を有するものではないのであるし、しかも庄田末吉が現に米谷莫大小製造所の営業を事実上運営し少くとも外見上はこれを主宰していたこと前記認定のとおりであることを考えれば、当該営業に関する徴税の確保を第一義とすべき収税官吏において、右営業の経営に関する現実の事実的状況の外観に立脚して庄田末吉を営業主として同人名義による課税処分をすることも十分首肯しうべきところと解せられるからである。

次に成立に争のない乙第九号証並びに弁論の全趣旨によれば、債権者根本正臣の申請に基く岡山区裁判所昭和一四年(ヨ)第四七号動産仮差押命令事件に付庄田末吉がその名において右仮差押債務者となり昭和一六年八月頃まで右仮差押執行が継続せられたことが認められ(但し右保全訴訟以外の民事訴訟事件に付庄田末吉が直接その名において訴訟当事者本人となり訴訟追行にあたつたことを確認するに足りる証拠はない。)、また当審における庄田末吉第一、二回本人尋問の結果によつて成立の認められる乙第一四号証の一乃至四によれば、いずれも庄田メリヤス工場名義をもつて昭和二二年二月五日大和莫大小機械製造所に対し、莫大小糸繰機械一〇台の買入手付金として金三万円、同年三月九日右同製造所に対し莫大小糸繰機械五台及び糸枠一台の買入手付金として金二万円、同年五月五日当麻新造商店に対し買受商品代金として金二万三、五〇〇円を、各支払つたことが認められるけれども、庄田が米谷莫大小製造所の経営行為を事実上担当処理しており、しかも通常の商業使用人の如く営業主との間に単なる雇傭関係があつて右営業経営に関与したものというのではなくして、前記のような米谷フジ及び一良等に事実上の身分的関係を継続していて、その故にこそ庄田において自と右営業の遂行に当つていたものであるという前記認定の事情を考えれば、その活動上時に庄田の氏名を使用することも亦あり得べきところであり、相手方たる第三者においても平常取引関係が度重なるうちには事実上の行為者に注目するの余り取引上米谷莫大小製造所を指称するのに「庄田メリヤス」の呼称をもつてしたり、又は取引上の紛争に関し「庄田末吉」を相手方当事者本人と表示して裁判上の手続を追行したりしたことがあつても敢えて異とする程のことではないと解せられるのであつて、大正五年以来数十年に亘り米谷莫大小製造所の営業に継続従事する間に時にたまたま「庄田メリヤス」若しくは「庄田末吉」の呼称を使用してなした僅小の取引や裁判上の手続の追行の故をもつて米谷莫大小製造所なる営業の帰属主体を決する根拠とするわけにはゆかない。

また原審における証人加藤清一の証言によつて成立の認められる乙第二〇号証中の「庄田末吉が大阪市城東区野江中之町二丁目一六番地米谷莫大小製造所の経営につき一切の実権を掌握し、同営業の主体は庄田末吉である。」旨の記載は右同証言全体の趣旨を斟酌すれば到底右記載通りの意味において信用することを得ないものと認められるし、当審における証人内田長市の証言によつて成立の認められる乙第一九号証の一、並びに各第三者作成名義の文書であつて弁論の全趣旨によつていずれもその成立の認められる乙第一〇号証の二乃至五及び前記乙第一〇号証の一、六の中、前記乙第二〇号証の記載と同趣旨の記載並びに原審における証人西谷政七、吉村けい、土井多蔵、保川良雄、土居勲、及び土居秋人の各証言、当審における証人西谷勇、松村作太郎、磯部ふみ、内田長市、西谷政七、土井多蔵、東野竹太郎及び保川秀雄の各証言中、いずれも前記乙第二〇号証の記載と同趣旨に帰する供述部分は、その中西谷政七、保川良雄、西谷勇、松村作太郎、磯部ふみ、東野竹太郎及び保川秀雄の証言については、同人等がいずれもかつて米谷莫大小製造所に雇われていた従業員であつて、前記認定のような米谷フジ及び一良若しくは米谷莫大小製造所と庄田との間に存した当初からの内部関係その他の諸事情については殆ど何等知るところはないまま、唯一従業員としての立場から日常見聞したところに従い、当時庄田が米谷フジや一良及びその弟宇一等と同居し、少くともその日常生活における外見上はフジの夫であり一良兄弟の父として振舞い且つ事実上各種事務や作業の処理遂行に関する指導指示、従業員の監督指揮等にあたり同営業所の運営を事実上推進していた外観的状況にのみ依拠して右趣旨の供述をしたものであることが各証言の全体を通じて自ら明らかであるし、前記証言中、証人土井多蔵の証言は、庄田と旧知の間柄にあるところから、主として庄田本人の言を通じて知り得た米谷莫大小製造所に関する庄田の地位を供述するものであることが同証言自体によつて窺われ、また証人吉村けいの証言は、主として庄田本人その他の他人からの伝聞に基くところを供述しているものであることが、同証言自体によつて明らかであり、更に証人土居勲及び土居秋人の各証言は、いずれも冒頭掲記の土地建物の売買契約を締結した前後の短期間における庄田末吉との交渉にのみ依拠する、同証人等の判断や推測を供述するものであることが、同証言の前後を通じて自ら明らかであるし、証人内田長市の証言も、米谷莫大小製造所の営業の外観のみに基く主観的推測の域を出ないことが証言自体によつて認められるのであつて、原審及び当審(第一、二回)における庄田末吉本人尋問の結果中前記乙第二〇号証と同旨に帰する供述部分とともに、これを前記甲第三号証の三、原審における証人和久田宗男、玉村為治、加藤正男、石田日出夫、吉田潔、西田昌二及び松下栄の各証言、当審における証人米谷栞及び松下栄の各証言並びに弁論の全趣旨と対比するときは、いずれも到底にわかにこれを信用することを得ない。その他庄田が米谷莫大小製造所の営業主であつたことを認定するに足りる証拠はない。

庄田及び一審被告千代田莫大小株式会社(後記のとおり現商号は大和林業株式会社という。以下単に千代田莫大小と略称することがある。)は「米谷莫大小製造所」の呼称による営業経営一切が事実上庄田の判断と労務とによつて運営統轄せられてきたこと、これに対し一審原告米谷一良が当初は幼少で到底営業経営の能カがなく、その生長は偏えに庄田が事実上の父として監護養育したことによるものであること、その成年に達した後も、病弱且つ無経験のため、現実に営業経営の能力や才覚に乏しかつたこと、等に基いて庄田こそ右営業の営業主であつたものと認めるべきである旨主張するけれども、一定の営業に付ての営業主とは、当該営業を組成する物的有形的財産及び無形の財産的利益が法律上帰属し且つ右各種財産の統一体たる営業組織に拠つて集団的に反覆継続せられる当該営業目的たる事業の遂行行為自体及びこれに関連する行為の法律的事実的効果が、その都度の格別の移転行為を待たずして法律上当然帰属するものとせられている、いわば制度化せられた特定の人格(自然人たる場合もあり法人の場合もある)を意味するものなのであり、そのような法的主体性の要件としては唯権利能力を有するものと認め得べき社会的存在であれば足りるのであつて、法律行為能力や意思能力までも有することを必要とするものではないと解せられるし、まして営業主体という以上、常に当該場合の営業に関する活動行為を自らの労務をもつて現実具体的に決定遂行しなければならないものというわけでもなく、更にまた社会生活上いやしくも営業の主体たる地位に在る自然人たる限り、当該営業に関する活動行為を自ら親しく現実に遂行処理するのが通常の事態である、という経験法則があるものとも解せられないから、庄田の米谷莫大小製造所の営業に関する活動尽瘁の範囲、態様若しくは程度に依拠して、庄田が右営業に付営業主であることを推断するわけにはゆかない。

また一審被告等は、庄田と一良の事実上の父子関係を捉らえ若し一良を営業主とし庄田を営業使用人とするならば、養育監護を受けている幼少の子が主人の地位に就き、その養育監護の労を果している父はその子に使役せられるという事態を生じ、一般正答な社会観念に反するというが、営業主と、当該営業に関し継続的に労務を給付し若しくは委任事務の処理にあたる者との間の関係が、常に本質的に身分的支配隷従の上下の関係を意味するものである、とは到底解せられないのであつて、この場合における営業主と爾余の営業従業者の別は、前記のような各種財産の包括的統一的組織たる営業に関与する人の法的地位に関する差異にすぎないというべきであるから、一般に子が営業主であり父がその従業員の地位にあることを認めたからといつて、倫理的人間関係の正常性を欠くとか、社会上異常な事態を肯認する誤を犯すもの、ということはできないし、また家の制度が存在していた当時において営業主たる子が成長後に一家を創立することは、営業主たる地位の維持と両立し得ないわけのものでもない。一般に規模も小さく組織も複雑でないのを通常とする中小個人企業にあつても所有と経営の分離の現象は起り得るものと解せられるのである。したがつて、一審被告等が庄田をもつて営業主と認むべきものとする根拠として主張する各種事情もすべて必ずしもその故に庄田が営業主であることを肯認しなければならないわけのものではないと解せられる。右事情の存在に立脚する一審被告等の論旨は採用できない。

次に理由冒頭記載の本件土地建物売買契約に付、買主側として現に折衝締結の事務処理に任じた者が庄田末吉本人であつたことは当事者間に争がなく、原審における証人土居勲の証言によつて成立の認められる乙第一五号証、前記甲第一号証の一、二、成立に争のない甲第二五号証の一乃至四、並びに原審における証人土居勲及び土居秋人の各証言(但し前記の措信しない部分を除く)、証人松下栄の証言、当審における証人米谷栞の証言(前記の措信しない部分を除く)及び証人松下栄の証言を総合すれば、庄田は直接買主米谷一良本人と自称して右締約行為をしたものであること、並びに本件土地建物売買契約に付売主のために折衝締結にあたつた者が土居産業株式会社代表取締役たる土居勲であることが認められ、米谷一良が米谷莫大小製造所の営業に付営業主であり、庄田は右営業上の支配人兼営業主の一般的代行権限を有する地位に在るものと認むべきこと前記のとおりであるところ、営業支配人の有する権限は、一般包括的であるとはいえなお依然営業主の代理権に外ならないのであるから、その権限に基き営業に関する対外的行為を締結するにあたつては、もとより一般代理の方式に従い営業主本人の名を示すとともに、代理資格における自己の名を表示してなすべきを原則とし、唯時に商法第五〇四条の特則により、営業主本人の名を示さずしてなお代理行為の効力を生ずるものとせられるのである。その代理権の範囲の包括一般的なるの故を以つて直ちに、支配人たる者が営業に関し右代理の方式によらずして営業主の名のみを表示しその名において対外行為を締結し得、その法律上の効果を直接営業主に帰属せしめ得るものとは解することを得ない。そうだとすれば、庄田が前記のように支配人と同一の権限を与えられているからといつて、これを理由に右売買契約の効果が直接、現にその名において右契約が締結せられている米谷一良に帰属するものとなすを得ないというべきである。しかしながら他面庄田は一良から、米谷莫大小製造所の営業に関し一般包括的に直接米谷一良の名義による法律的及び事実上の行為を代行し得べき権限をも授与せられていたものと認め得べきこと前記のとおりである。そこでこのように、或る人が特定の他人のためにに、その他人の名による法律上及び事実上の行為を代行し得べき権限を有するものとせられた場合における、右代行権限の行使としてなされた対外的法律行為に関する法律的効果、その他法的意味の如何を考察すると、それは次のような関係と解せられる。(なお事実的行為の代行の法的意味の考察は、本件の判断に直接必要でないから省略する。)

先ず代行をなすべきことを委託した者と代行者との関係としては、代行権限若しくは代行関係の存在とは、或る人が他の特定人に対して自己のために法律的行為に関する事務を処理すべきことを委任するとともに、受任事務につき対外的には委任者の代理人として処理にあたらずに直接委任者本人の名においてその処理をなすべきことまでもあわせて委託し、受任者の側においても、委任者に対する関係においてこのような方式による事務処理を承諾することによつて右両者の間に成立し、右受託者が受任事務の処理として直接委託者の名において第三者との間に契約を締結すれば、その法律効果は先ず一旦現実に当該行為をなした受託者自身に帰属するが、受託者と委託者との間の合意に基く内部関係の本旨に従い、通常代理権授受を伴わない委任関係における間接代理の場合に必要とせられる受任者から委任者に対する行為の効果の格別の移転行為をまたないで、当該行為の効果は当然即時に委任者に移転帰属する効果を生ずるものと予定した当事者の合意に基く関係をいうものと解するのが相当であるから、結局代理の方式によらないで直接他人の名において対外的法律行為をなすべき代行権限とは、代理権を伴わない委任関係であつて、しかも受任者の委任者に対する民法第六四四条に定める受任事務処理の効果移転義務の履行を予め簡略化することを目的とする当事者の特別の合意を伴なう関係を意味するものというべきである。

次に代行権限の行使による対外的取引行為の相手方たる第三者に対する関係について考察すると、(一)その第三者が代行行為であることを知らない場合(この場合には現に使用せられている名義と現実の行為者との同一性が存在するものと認識するのが通常の事態と解せられる。)には、行為の効果は先ず現実且直接的行為主体として自ら親しく折衝締結にあたつている代行者に一旦帰属するが、相手方たる第三者の側において、現実の行為者たる代行者その人の個性に着目し特にこれを重要視してその人格的個性を当該行為の要素となし、その表示せられた当事者名義の形式如何に関係なく、もつぱら唯その代行者その人を相手方としてのみ法律関係を設定しようという意思であることが客観的且つ合理的なものとして認められる特段の事情が存する場合でない限りは、当該行為の効果は代行者とその委託者本人との間に存する内部関係の効力に従つて、右第三者との関係においても名義人に帰属するに至ることを妨ばられないと解せられる。そしてたとえ前記特段の事情が客観的には存在するものと認められる場合であつても、相手方たる第三者が右特別事情に基き錯誤等を理由として当該行為の法律上の効果を否認しようとしない以上は、矢張り右と同様の結果に帰するものと解せられる。蓋し代行者から委任者本人えの効果の移転はその間の内部関係の効力によるものであつて取引の相手方たる第三者の行為によつて左右せられるものではないからである。(二)、若し具体的場合の相手方たる第三者において、当該行為に関する現実の行為者に付前記のような意味における代行権限の存在することを知つている場合になお敢えて現実の行為者本人を相手方としてのみ当該行為を締結する意思であることを客観的且合理的に表示することなく、代行者が使用するがままに被代行者本人の名義を当該行為の相手方当事者名義として行為をするならば、この場合には、当事者双方の各相手方たるべきものの同一性の認識とその表示に関しもはや何等の齟齬はなく、代行者たる者はこの場合委任者本人の機関に等しい地位に立つものと解せられるから、当該行為の効果が相手方たる第三者との関係において、直接名義人たる委任者に帰属するものと取扱うべきことは更に明白である。

代行権限の行使としてなされた対外的取引行為に関する相手方たる第三者と、委任者本人との間における効果の帰属関係は、以よのように解せられるのであるが、更に一定の具体的場合に代行者において、もつぱら直接当該代行者本人の利益のためにする意図のもとに、しかも現実に行為締結にあたる代行者自身の名は一切表示しないで委任者本人の名のみを表示して第三者と取引を締結した場合の当該行為の効果の帰属関係如何を検討すると、一般に代行者の委任者本人のために当該行為をなすべしという意思(この意思に出でた行為が代行権限の行使行為にあたる)とは、単に各具体的場合における代行者の内心的心理的事実を指すものではなく、代行者が具体的行為をなすに際して自己の名を表示することなく、もつぱら委任者本人の名を当事者名義として外部に表示したという事実を基礎とし、具体的場合の諸般の事情を総合して客観的にその存在が推断せられるものと考うべきであるから、代行者が具体的場合における行為の効果を当初から確定終局的に代行者本人に帰属せしめるためには、行為に際し、現に当事者の表示として使用した名義が正に当該代行者その人を指示するものであつて、他の如何なる人格をも指示するものでないことを相手方第三者に対し特に表示し、相手方たる第三者がその表示に信頼立脚して当該行為を締結し、且つその具体的場合に付予め特に代行者本人のためにのみ当該行為をなすべきこと及びその行為につき委任者本人の名義を代行者その人の表示名称として使用すべきことを委任者本人に告げ更に代行者、委任者間の特別の合意をもつて右特定の場合の取引行為を予め前記既及の代行関係から排除することを要するものと解するのが相当である。

そこでいわゆる法律行為等の代行関係に関する、以上のような一般的観念に立つて、本件土地建物の前記売買契約上の効果の帰属を考察するのに、売主たる土居産業株式会社を代表して折衝締約に任じた土居勲が、買主側として現実に折衝にあたつた庄田末吉その人の個性にのみ注目し、表示せられた買主名義が具体的に如何なるものであるかには一切関係なく、唯もつぱら現実行為者たる庄田本人を買主とし、これに本件土地建物を売渡す意思を客観的に明らかにして、右契約をしたものと認めるのを相当となすべき何等の証拠がなく、却つて前記乙第一五号証、甲第一号証の一、二、甲第二五号証の一乃至四並びに原審における証人土居勲及び土居秋人の前記各証言と弁論の全趣旨によれば、右契約締結にあたり、土居勲はその買主名義は「米谷一良」であり、現に折衝締約行為を自ら処理している庄田を右買主名義人本人と認識していたのであり、一良と庄田の間の前認定の如き支配代行の関係については全く知るところがなく、庄田及びその他の者も、右関係については別段何等の説明もしなかつた事実が認められるのであるし、他方庄田末吉本人に付、同人が右契約に関し土居勲と折衝締約するにあたり、「米谷一良」を買主名義と表示しながら、しかもなお米谷莫大小製造所の呼称による前記営業若しくはその営業主たる米谷一良とは全く分離せられた地位に在り、これらとは独立無関係であるものとしての庄田末吉本人のみの利益のためにする意思を有したこと、並びに「米谷一良」という表示せられた買主名義が、もつぱら唯庄田本人を指示するものである旨、土居勲に対して等に表示したこと等を認めるに足りる証拠は何もなく、却つて米谷莫大小製造所の呼称による営業と庄田末吉との間に、少くとも右契約締結当時までは継続していた前記認定のような関係に照らすときは、庄田は前記代行権限に基き、もつぱら米谷一良がその名において本件土地建物の所有権を取得するに至ることを期待して右売買を締結したものであることが明らかと認められるのである。そうだとすれば、本件土地建物の各所有権は右売買契約に因り一良に移転帰属するに至つたものといわなければならない。なお右売買代金の支払資金が現に何人の個人所有財産を財源として出捐せられたかの事実は、法律上右契約上の法律効果の帰属主体を決定するものでないばかりでなく、前記甲第一号証の一、二、甲第二五号証の一乃至四、原審における証人松下栄の証言及び当審における証人米谷栞及び松下栄の各証言(証人米谷栞の証言中前記措信しない部分を除く)と米谷一良第一、二回本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨を対比考察するときは、一審被告等の全立証を以てしても右契約所定の本件土地建物代金を庄田がその個人所有財産から出捐して支払をなした旨の、一審被告等の主張は到底これを肯認するに足りず、その他にもこれを認定するに足りる証拠はない。

そして一良から庄田に対して本件土地建物の各所有権が変動移転したものと認めるべき原因事実の存在することについては、一審被告等において何等主張立証するところがなく、しかも庄田において本件土地建物の各々に付、いずれも大阪法務局上町出張所昭和二六年一二月一九日受付をもつて、各同月一三日付売買を原因として、その名義に所有権移転登記を経由したことは当事者間に争がなく、また庄田が現に本件建物を占拠使用している事実は、庄田において明らかに争わないのでこれを自白したものとみなす。

そうすると、庄田は一良に対し実質上正当な登記原因なくして一良所有の本件土地建物に付自己名義で経由した右各所有権移転登記の抹消登記手続をなし、且つ本件建物から退去すべき義務があるし、また右登記移転と建物占有の事実によつて、庄田が本件各土地建物に対する一良の所有権を争つていることは明らかであるから、一良は庄田との関係において、本件土地建物の各所有権がいずれも一良に帰属するものであることに付、即時確定の利益を有することも亦明らかである。また庄田が株式会社大和銀行に対する米谷一良名義の普通預金二八万二、三〇〇円並びに株式会社三和銀行に対する右と同一名義の普通預金一〇万円を、それぞれ庄田本人のために払戻しを受けてこれを領得したことは、当事者間に争がなく、右預金引出が一良の意思に基かず、その同意承諾は事前事後を通じなされなかつたこと、が弁論の全趣旨によつて明らかであるし、右預金債権が単に対銀行関係における預金者名義如何のみならず、一良と庄田の間に存する内部関係の前記認定のような実質に照らしても、元来一良に帰属する前記営業上の財産と認められるものであること、並びにたとえ庄田において右払戻を受ける当時右財産帰属の関係を正確に認識するところがなかつたとしても、その点に付少くとも過失の存したものと認むべきことは、米谷莫大小製造所の営業経営に関する前記認定の如き経過と代行若しくは支配関係に関する前記認定と説明に徴して明らかなところと認められるから、庄田は少くともその過失に帰すべき右預金引出行為に因り一良に対して違法に右同額の損者を与えたものとして、その賠償義務を負うものというべきである。

次に一審被告千代田莫大小株式会社が、先に昭和二六年一一月一日本件土地建物を庄田の所有として同人から賃借占有するに至つたことは当事者間に争がなく、本訴においても本件各土地建物が一良の所有に属するものであることを争つていることは、訴訟の経過によつて明白であるから、一良は千代田莫大小株式会社に対する関係においても、本件各土地建物の所有権がいずれも一良に帰属するものであることにつき即時確定の利益を有するものというべきである。

しかしながら、その後同会社が昭和三五年三月五日に至り現在のとおりに商号を変更したばかりでなく、その営業目的をも、従前の各種莫大小製品の製造販売並びにこれに関連する業務から、植林業、木材の売買並びにこれに付帯、関連する業務に変更して、同月一六日に登記し、次で同年九月五日には本店を、広島県大竹市大竹町栄町五〇番地に移転して、同月一四日その登記をしたことは、当事者間に争がなく、しかも本件土地上の建物にはかつて「千代田莫大小株式会社」と表示した看板も掲げられていたのに、それがいつしか取外され、その代表者その他の会社関係者は誰一人として右建物に出入していない常況にあることは一審原告の自認するところ(昭和三五年一二月一五日付一審原告訴訟代理人提出の「請求趣旨の減縮申立並準備書面」に基く当審第一四回弁論期日における陳述)であり、右事実と弁論の全趣旨を総合すれば、一審被告会社は当審口頭弁論の終結当時には、既に本件建物から退去して本件建物の極小の一部分といえども全く占有してはいないことが明らかと認められ、右認定に反する証拠はないから、一審被告千代田莫大小株式会社に対して本件建物から退去すべきことを求める一審原告の請求は、理由がないものといわなければならない。

以上説示したところによれば、事実記載のとおりに減縮(この減縮の結果一審原告の本訴請求中第一審において敗訴した部分に付すべて訴の取下が適法にせられた。)せられた結果一審被告庄田末吉に対する請求となつた「一審被告庄田末吉に対し、本件土地建物の各所有権がいずれも一審原告に帰属することを確認し、一審被告庄田末吉は一審原告に対し、一審被告庄田が本件土地建物に付大阪法務局上町出張所昭和二六年一二月一九日受付第二一六三五号をもつてなした同年一〇月一三日売買を原因とする各所有権移転登記の抹消登記手続をなし、本件建物より退去し且つ金三八万二、三〇〇円を支払うべきこと」を求める請求は、すべて正当として認容すべきものであり、右減縮せられた結果たる一審被告千代田莫大小株式会社に対する請求は、被告会社に対して本件土地建物の各所有権が一審原告に帰属するものであることの確認を求める限度においては正当として認容すべきものであるが、その余は失当として棄却すべきものであるから、一審被告庄田末吉との関係において右同旨の原判決は相当であつて、一審被告庄田末吉の本件控訴は理由がないから民事訴訟法第三八四条によりこれを棄却することとし、一審被告千代田莫大小株式会社との関係において原判決は右と同旨の範囲においては相当であるが、右と趣旨を異にする限度においては失当であるから、原判決主文第一項中一審被告千代田莫大小株式会社の関係部分を主文第二項の(一)、(二)、のとおりに変更し、訴訟費用の負担に付一審原告と一審被告庄田末吉との間においては同法第八九条、一審原告と一審被告千代田莫大小株式会社との間においては同法第九六条第九二条を各適用し主文のとおり判決する。

(裁判官 山崎寅之助 日野達蔵 常安政夫)

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